2018年07月03日

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8 #7 心の葛藤(Time for After)」パワハラの境界線



殴ってもパワハラ、モラハラに
ならないこともありますよね。

例えば正当防衛。

相手が自分の領域を侵してきたとき
それを振り払っても振り払っても
力づくで押さえ込もうとしてくる。

どうしてもそれは自分の道への
介入、阻害だとしたらはねのけなければならない。

っとなるとそれが相手を殴る
という行為になることもあります。

また、愛のムチなんてのはどうでしょう。

大切な仲間が怒りに我を忘れて
身を滅ぼすような行為に走ろうとしている。
あるいは、仲間のその冷静さを欠いた
独りよがりな行動で、
他の仲間が危機に陥ってしまう。

そういう場合は力づくでも
やめさせなければならない。

殴ってでも正気を取り戻させなければならない。

そんな場合もありますよね。

わたしも殴りはせずとも
息子と取っ組み合いのケンカをして
投げ飛ばしたことがあります。

それを体罰だとは未だに思わない。

息子も体罰だとかパワハラだとか
虐待だとは思っていないはずです。



ガッツリこのドラマを観れるところまで観た後は
仕事ざんまい。夜遅くまで働いた翌日は
早朝からの仕事です。一番楽しみの
「ヒロアカ」も観れてない!!

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8」
第7話「心の葛藤(Time for After)」


を観ました。

清掃人に捕らわれたリックは
ボスのジェイディスを説得しますが
彼女は聞く耳を持ちません。

聖域では様々な事柄を結びつけ
ユージーンがドワイトの裏切りに気づきます。

ユージーンはドワイトに、
裏切り行為をやめて欲しい、
そうすれば黙っているからと諭すのですが、
何もせず身を引けと言い返されます。

さらに、感染症に苦しむゲイブリエルからは
正しいことをしろと言われたユージーン。

しかしニーガンからはその能力に期待され、
安全に生きていたい自分と
正しいことの間で葛藤するのでした・・・。

聖域の外ではダリルとタラ、
ミショーンとロジータ、
4人の中で意見が別れていました。

ダリルとタラは、もう待てない
一気にケリをつける、
予定にない攻撃を実行に移し・・・。



何話目でしたでしょうか?

2人で行動していたリックとダリルが
殴り合いを始めましたね。

やっと見つけた救世主たちの武器を
確保した直後、ダリルが

「一気にケリをつける」

と武器を持って聖域に攻めようとし、
リックがそれを止めようとしたんですね。

作戦通りにしないと…
これはみんなの闘いですから。

その結果、2人は別々の方向を目指して
離れてしまいました。

そして今回は、そのダリルがタラと組んで
起こそうとしていることを
ミショーンとロジータは…

ダリルとタラには迷いが無いようです。
しかしミショーンとロジータにはある。

4人は言い合いになります。

4人で葛藤する。

でも、面白いのは一生懸命に
自分の意見や思いは伝えても
最後の最後では
相手の決断を尊重することです。

リックとダリルもそうでした。

力づくでぶつかり合っても最後は
お互いの考えを尊重し合う。

救世主はどうでしょうか?
ニーガンは自分が従える多くの民に
暴力をふるいはしません。

しかし、見せしめ、
さらしものにされる人はいる。

ニーガンに逆らうとどうなるか?
を残虐行為を見せ付けることで
わからせるというやり方です。

ニーガンはきっと、
みんなは自分の意思で
俺についてくることを選んだ…

などと言うでしょう。

でも、分かりますよね。

これを文明社会、現代社会で行えば
パワハラ、モラハラ、虐待…そして独裁。

相手の魂、心を尊重しない。
心から従わせようとする。

シーズン7から何度も描かれました。

救世主たちは、ニーガンに
「お前は誰だ?」と問い詰められると
恐れおののいてこう答えます。

「I’m Negan(私はニーガン)」

…象徴的です。

さすがにここまで独裁的な人がいたら
あからさまに問題です。
目立つから誰が見ても「パワハラだ!」
って言われる。

でも、怖いのは、やっている側が
これと同じ状況が起きていることを
気づかずに…まったく自覚なしに
この状況を生みだしてしまうことです。

それが、昨今のパワハラ問題を
増殖させている。

このシリーズはリックという
圧倒的なリーダーのモデルが描かれてきました。

リック自身、行きすぎた自分を顧みたりして
どう在るのが正しいのか?

悩みや失敗を繰り返しながらの成長です。

そこまで入れてモデルとして最高です。

他にもこの前シーズンからここにいたるまで
エゼキエルやマギーというリーダーのモデルも
出てきています。

リック側のリーダーとニーガン。

どちらも組織が作られていますが
リーダーと組織の在り方。

そのコミュニティの人々の人間関係を観ると
わたしたちが会社や家庭を
どう存続させていくべきなのか
考えるためのお手本になりますよね。

両者の間にクッキリと
パワハラの境界線は表現されていますから。


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2018年07月02日

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8 #6 分かれ道(The King, The Widow and Rick)」出会ったからには責任がある



少年期から学生の頃までは
わたしは友人とのつながりを
とても大切にしてきました。

今は大切にしていないのか?
そんなことはありませんが、
大切に仕方、かたち、距離の取り方は
ガラリと変わったとしか言えない。

大人になると親友とも
なんに何度も会えない。

いいや、それには語弊があるかもしれませんね。
大人でも友人たちと過ごす時間を
沢山持てている人もいるでしょうから。

でも、わたしも妻も家庭を持ってからは
友人たちと過ごせる時間が
少なくはなりました。

わたしは「無くなった」と言っても良いくらい
極端に減りました。

また、友人たちも家庭を持てば
なおさらにその機会は減っていきます。

寂しいことではありますが
お互いの幸せを祈り合えるのが友人。

そう信じて、友達がいなくなったなんて
彼らに対して失礼なことは思わない。

とくに最近はSNSのお陰で
たまに彼らの様子を知れることは
テクノロジーに疎いわたしにも
嬉しいことです。

でもわたしはあまり自分の様子を
人に知らせることはしません。

不精なんですね。
ごめんなさい。

でも、彼らに対してやっちゃいけないこと、
本当に裏切りになってしまう事って
なんでしょうか?

ひとつだけ在りますよね?



朝、一話だけ観て家を出ました。
まだ妻も息子もスヤスヤ寝ている
土曜日の朝の時間。
くそ〜!続きを見れないのが悔しいよ〜
ちゃんと仕事して、明日の朝、また観れるかな?

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8」
第6話「分かれ道(The King, The Widow and Rick)」


を観ました。

救世主との戦いは第一段階を終え、
それぞれが町にいったん戻り
次への準備を行っていました。

しかし一気にケリをつけたいダリルは
同じ思いのタラを誘い2人で
再びニーガンたち救世主の本拠地、
聖域へ向かいます。

戦いに参加していないミショーンもまた
聖域の状況が気が気ではなく
自分の目で確かめたいと言い
ロジータと共に聖域へ向かいます。

道中で怪しげなオペラが聞こえ
ある建物を見つけるミショーンとロジータ。

一方、ヒルトップでは
連れてきた救世主の捕虜を巡り、
マギーとジーザスの意見が対立していました。

リックはただ一人、一度は自分たちを裏切り
救世主側についた清掃人に
改めて同じ取引を持ちかけにゴミ山へ
やってくるのでした…

またそのころリックの息子カールは・・・



カールは、シーズン第1話の冒頭で
アレクサンドリアの外の
ガソリンスタンドで出会った男性を
探していました。

誰を信用して良いかわからない世界です。

しかも、ここ最近は見知らぬ人を見たら
救世主と思え・・・という
感覚にもなっていてもおかしくありません。

そのくらいヤツらの勢力は
大きなモノになっていました。

だから、ガソリンスタンドで会ったとき
リックは威嚇してその男性を追い払いました。

でも、必ずしも救世主だとは
限らないわけですから、
カールはそのとき確かめようとしたんでしょう。

それをさせずにリックは追い払った。

それ以来、カールは町を出ては
彼の無事を確かめようとしていました。

そして、この話ではやっと森の中で
彼に遭遇することができます。

彼の名はセディク。
カールは水と食料をセディクに渡すために
探していたことを説明します。

セディクはまだまだ警戒中。

お互いの母の教えの話をして
本当に敵ではないようだと理解したセディクは
なぜカールがそこまでするのか
わからずにいました。

そんなセディクの疑問に
「出会った責任がある」とカールが答えます。

セディクはカールに
迷惑をかけたくないと言いますが、

カールにとっては父リックに示す
自分の道でもあるようです。

・・・

出会った責任・・・

カールの言葉を聞いて、わたしも
今まで出会ってきた人たちのことを
思い返してしまいました。

とくに親友と言って良いほど
深く知り合った友人たち。
青春を共にし、お互いの苦しみや
夢を分かち合った友人たちです。

彼らの中には今でも年に数回は
集まって飲めている集まりもあるようですが
わたしは数年会えていなかったりする。

薄情者と言われても仕方がない。

でもたまに連絡を取ると
彼らはそんなことは思ってもおらず
お互いにすぐに昔に戻れます。

お互いきっといろいろ問題はあれど
とにかく元気な声が聴ける。

それはとても喜ばしいことです。

きっと、今わたしが不幸になること、
自分の人生を否定するような行い・・・
例えば、犯罪を犯したり、自暴自棄になったり
するようなことは
彼らに対する裏切りなんだろうなと思います。

今のわたしはコレまで出会ってきた
たくさんの人たちによって創られている。

だとしたらわたしが自分を否定することは
彼らとの時間も否定することになります。

だからわたしはやっぱり今を
精一杯幸せになろう、幸せで在ろうとする
義務があるんだよなと感じられます。

彼らのお陰でわたしや
わたしの家族が今在るのは
紛れもない事実なわけですからね。

出会ったからには責任がある。

あなたが自分や今自分の周りにいる人を
大切にすること。

それが、これまで出会ってきた人たちへの
一番の責任なんだと思います。


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2018年07月01日

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8 #5 懺悔(The Big Scary U)」救いを求めている自覚があれば方法はあります



カウンセラーがこの国にも
増えてきましたね。

大企業には提携している
プロのカウンセラー集団もあって
福利厚生かあるいは社会保険の
一つとして無料でカウンセリングを
受けられるようになっている会社も
多いのではないでしょうか?

わたしの勤め先にもあります。

ありますが、まだ、
利用したことはありません。

なぜか?そんなに悩まないから?
いいや、きっと、
心を開けない弱さがある。
誰とも知らない人を信頼できるのか?
その怖さもある。

でも、いまわたしが元気でいられるのは
話を聞いてくれる存在が
周囲にいるから・・・

それが一番大きいんですよね。
それでも、うちは核家族生活だし
ほぼほぼ、仕事と自宅の往復。

わたしの話を聴いてくれる人なんて
本当にごくわずかな人に
限られています。

では話を聴いてもらえることの
一体なにが救いになっているのか?

否定も肯定もせず、とにかく思っていること
感じていることを聴いてもらえるだけで
少しスッキリして落ち着くというのはあります。

それはそれで大事なこと。

でも、それだけでは根本的に
自分が救われるとは思えない時があります。

まだまだ深い部分にある何か・・・
それを解決しないと
本当の意味では自然体の自分になれない。

本当の意味では救われない何かが・・・ある。



フツーのドラマになっちゃったかなぁ・・・
なんて思いながら観ていましたが、
やっぱり見始めるととても高い水準を
保っているのがわかりますね。

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8」
第5話「懺悔(The Big Scary U)」

を観ました。

ウォーカーの大群に囲まれて
逃げ込んだ小屋に居たのはニーガンでした。

あろうことか敵の総大将と
2人きりで閉じ込められたゲイブリエル。

彼は裏切り者の元ヒルトップのリーダー、
グレゴリーを助けようとして
またもや裏切られその状態に陥ったのです。

それでも神に使える聖職者、
ゲイブリエルは自分の行動は
ニーガンと2人きりになり
彼の懺悔を促すことだったのでは…
とニーガンに語りかけます。

一方、ニーガンが死んでしまったと思った
サイモンたち救世主の幹部グループは、
自分たちの中に、リックたちと繋がっている
裏切り者の存在を感じて
お互い疑心暗鬼になっていました。

そうこうしているうちに
電力も物資も不足していき、
憤った労働者たちがルールを破り
建物の上階へ責めたててきます。

そのイザコザのかなで・・・



さあ、ゲイブリエルはどうなるのか?
彼だけじゃありませんね。

毎回このドラマは、
みんながどうなっていくのか?
気が気でなりません。

だからついつい、あと1話、もう1話、
と気がつけば時間が許す限り観ちゃう。

毎シーズン録画してくれる弟によると
作品自体の構想としては
シーズン16くらいまで予定されているのだとか・・・

ええ〜!じゃあ、やっと今半分?
シーズン1から10年近く観てきたような
気がしてるのですが・・・

感受性も体力も健康状態も
まだまだ若くいなきゃならんな〜!

さて、ニーガンが懺悔なんてするんだろうか?

なんて思いながら観ていました。
嫌ですね〜。中途半端にニーガンの
人間味のありそうな部分を見せられて
下手に同情なんかさせないで欲しい。

シーズン6の終わりからシーズン7にかけて
とにかくどう残酷な最後をむかえさせれば
この憎いニーガンが心の底から
後悔しながら死んでいくか?

みたいな感覚で彼のことを観ていたので
ここで下手に同情させられてしまうと
今まで彼に殺されてきた仲間たちは
一体どうなるんだ?

ってなっちゃう。でも、そのあたり
雲行きが怪しくなってきましたよ。

ゲイブリエルはニーガン懺悔を促します。

まだまだ彼は自分がやっていることが
正しいと思っている。

でも、彼の過去をにおわせる話題が
少し出てきました。
うを〜!聞きたくない!(笑)

さて、懺悔・・・

って何でしょう?
自分が犯した罪を罪として認め
悔い改めること・・・

言葉の意味は理解しているつもりです。

でも本当に懺悔を理解していることになるのかな?
オレはちゃんと懺悔できる人間なのかな?

ふと、憎たらしいニーガンを観ながら
そんな考えが頭をよぎりました。

罪を認め
悔い改める

懺悔というとキリスト教の協会で
罪の告白にくる人が
アメリカの映画ではたまに出てくるので
その光景を思い浮かべます。

そもそも彼らはなぜそんなことをするのでしょう?
彼らが求めていることは何なんでしょう?
罪なんか黙っておけばいいのに。

そう、彼らが求めているのは
「救い」なんですよね。

なぜ、罪を認めることが救いになるのか?
大元はシンプルなんだと思います。

刑事ドラマの取り調べなんかでも
「さっさとしゃべって楽になれよ」
なんて言いますよね?
心のからくりとしてはシンプル。

でも、わたしたちの生活の中での
「罪」というのは法律に照らし合わせたときの
「違反」とはまた違います。

自分たちのズルさが招いた選択や
弱さからでた行動など・・・

別に法律は犯していなくても
そういう「罪」の意識は少しずつ少しずつ
自分の中に降り積もっていく。

でも「仕方がなかった」「こうするしかなかった」
と自分を正当化していて
なかなか罪を罪として認められません。

本当はわかっている自分と
そうするしかなかったと
自分を守ろうとする意識とで
どんどん苦しみが増していく。

だから、人はそれに気づいたときに
救いを求めて懺悔を聴いてくれる場を
求めて協会にやってくる。

カウンセリングもほとんど構造は同じです。
「罪」どうかは別として
自分の選択によって苦しんでいる。
でも当人はなにが悪くてそうなったのか
複雑に人生が絡まりすぎていて
身動きがとれなくなってしまう。

正当化の上に正当化を重ねて
自分でもなにがなんだか
わからなくなっているんでしょうね。

だから、心のおりを少しずつ
外していかないといけない。

シンプルな自分に戻って
素直に自分に戻ったときに
心の底から救われるということなのでしょう。

これって本当に大切なことなんだなと
今、身にしみて感じています。

いや、まだ本気で理解してない・・・かな。

結局そういうことなんだろうと
わたしの中の矢印が
方向を指し示し始めているだけです。

まだまだわたしはこれから
たくさんの「罪」を認めて
たくさん悔いないといけない。

まずはそれをしないことには
なにも改まらないですもんね。

それにはやっぱり強さが必要だな〜


            全ての物語のために










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2018年06月30日

アニメ「ピアノの森 #11 ポーランドの新星」宇宙の力が自分の身体を通して出る感覚



(笑)凄いタイトルですね。

宇宙の力が自分の身体を通して出る感覚

スピリチュアル的な感じを
狙ったわけではないんですが
でもまあ、それも無いわけではないか…。

わたしは、幸運にも
数回だけですが、そういう感覚を
味わえたことがあります。

自分がただの器となって
自分の身体を通して
宇宙からの力みたいなものが
そとに出て行く感じ。

作家やクリエイター、アーティストなどは
そういう感覚になることは
多いようですね・・・

わたしが感じたのは
中国武術の練習をしているときに一度。

脚本を書いている時に一度。

最後は電話応対のコンクールで
風邪で喉を壊してしまった県大会の時。

この三回は、本当に自分でも
不思議なくらい自分ではない何かが
自分を使っているという感覚でした。

自分の調子が良いなんてものじゃない。
空っぽの心地好さがある。
空っぽなんだけど意識が無いわけではない。
自分でもびっくりするくらいの
パフォーマンスが出るんです。

その代わり、終わった時は
もうすっからかん。

ぜ〜んぶ出し切ったような感じになって
放心状態になっちゃいます。

ある意味、嘔吐している時の
苦しさもなくはないけど
「まだいける、まだいけると」
自分でもいけるところまで行きたくなる。

成人してから記憶に残っているのは
たった3回ですが、もっと昔は頻繁に
あったというな気がしなくもないですね〜



一週休みがありましたよね。
1クール終了前に休みと言うのは珍しい。
7月からはこの作品に続けて「進撃の巨人」の
シーズン3を放送するようですね。

アニメ「ピアノの森」
第11話「ポーランドの新星」


を観ました。

とてつもない緊張の中、
修平がステージに上がります。

信じられる自分を取り戻すため、
そして自分の心の唄をカイに聴かせるため、
修平は透明になり鍵盤を弾いていきます。

修平の演奏はカイだけではなく
誰もが心揺さぶられてしまう
そんな演奏だったようです。

修平の演奏に心打たれ
自分の出番まで緊張をほぐそうと
ワルシャワを走るカイ。

ショパンの森に入ると
あるポーランド人の出場者
レフと出会います。

レフもまた、緊張をほぐすために
来ているようです。

自分のことで精一杯だとカイが語ると
レフも自分と同じだと言い、
実はこのショパンの森は
自分の森だというのです。

2人は予選最終日の検討を
互いに祈ります。

そして迎えた予選最終日…。



この作品はピアノ演奏にもこだわっていますよね。
演奏シーンではCGアニメに切り替わります。

あれはモーションキャプチャーで
本物のピアニストが演奏している動きを
各キャラクターに反映させているから。

アクションやダンスと違って、
ピアノの演奏と言うところが新しいですね。

特に手、指の動きにいたるまで
モーションキャプチャーしているそうです。

そして、そしてそれぞれのキャラクターが
演奏する曲はキャラクターごとに
声優ならぬ奏優がいる。

それが、それぞれ本物の有名な
ピアニストなんだそうですね。

役に合わせてピアニストが
当てられている。
しかも、キャラクターと同じ国出身の
ピアニストたちが。
こだわってますね〜

今回は雨宮修平の演奏に
皆が心揺さぶられるというシーンでした。

わたしも聴きいってしまいました。

アニメの公式HPでも30秒程度ずつ聴けますが
MP3ではなくせめてCD音質で聴いてみたいですね。

今回の修平は透明になることを
意識して弾き始めました。

透明になる…

これって、空っぽになるとか
器になるということなんじゃないかな…

修平は偉大な音楽がが残した音楽を
そのまま再現しようとして
自我を捨てたということなのでしょう。

それは見事に成功して
その透明感をカイたちも感じていました。

そして最後はその透明な器に
自分の悲しみを注ぎ込んでいきます。

今回のこのシーンとこの演奏で
これまでで一番この作品のサントラを
本当に欲しくなりました。

わたしは武術の練習中に
全身全霊で自分が宇宙と繋がった感覚を
感じたことから、健康状態が
万全の時にそういう感覚になるのかな?
って思っていたのですが、
電話応対のコンクールの時は
風邪をひいていました。

喉は声を出せないほどに酷い状態。
でも本番の3分間だけビックリするほど
腹からの声が会場中を震わせた。

演技が終わった直後、もう
スタート前の声が出ないわたしに戻っていました。

必ずしも健康な時とは限らない。
要は集中力なのかな…

と思っています。
健康な方が集中力は発揮しやすいから
健康に機を使うのは悪くないけど
健康でなければ集中できない
と決めつけるのも早計。

時には枷になるような条件が
逆に集中力を高めてくれることもある。

でも、その集中力の源って
やっぱり子どものころにはいつも
触れていた物だと思うんです。

触れていたというか当たり前に
自分の魂と一体だったもの。

夢中で画を書いたり、何かを作ったり
真似たり、遊んだりしていたあの頃。

あの頃の体験は全部
この感覚が当たり前だったはずだと
自分の記憶をたどっても納得できます。

透明になる、空っぽになるとは
大人になるまでにくっつけてきた
余計なものを一切合財手放して
ただ、生まれたばかりの自分に戻る。

そういうことなのかもしれません。

どこかで渇望していないでしょうか?
常に心のどかで感じている。

わたしももう少し多く
あの感覚を味わえるように
自分に溜まり溜まったものを
手放す作業を心の中で行っていきたいです。

そろそろ、断捨離の時期かな?


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2018年06月29日

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8 #4 王への忠誠(Some Guy)」注入した元気の使いどころ



自己啓発書にハマったのは
高校卒業のタイミングでした。

中谷彰宏さんの本に出会って
リズミカルに自分の中に入ってくる活字が
心地よくて元気をたくさんいただきました。

高校生までは読書を
全くしていなかったのに
浪人時代は書店に毎日通いました。

それまで自分の中にもやもやとしていた
いろいろな思いを、言葉にして
わかりやすく見せてくれている感じ。

自分がどう在りたいのか、
どんな風でいたいのか、
自分で自分を理解していく感じ。

特にそれまで活字に触れていなかった分
乾いたスポンジを水が潤していくような
そんな状態だったのかも知れません。

ただ、そこからが課題となっていきました。

元気があるときは良いです。
どんどん吸収できてどんどん元気になれる。

でも、元気がないときに
まるで栄養ドリンクでも飲んで
一時しのぎの元気を注入するような
そんなノリで自己啓発書を
貪るようになった時期がありました。

元気がないときに読むこと自体は悪くない。
でも本来、書籍、特に自己啓発本って
そんな使い方をするためのモノではないはず。

むしろ、逆でそんなことをする必要がない
自分を作り上げていくための
知恵や知識が詰まっているはずのモノ。

心が折れそうなときにコレまでに
身のうちに取り込んできたそれらの
知恵・知識のかけらを
本当の自分が拾い集め
自分自身を発見するためのヒントにする。

そんなイメージをつかめてから
さまざまな本とのつきあい方が
健全になっていった気がします。



一息ついていたら、一週間ずつ見れるテレビの
番組表に新番組がちらほら出てき始めましたね。
さて、この作品は全16話。
見終えることができるか?

ドラマ「ウォーキング・デッド シーズン8」
第4話「王への忠誠(Some Guy)」


エゼキエルたち王国の部隊は
救世主の基地に奇襲をかけ成功。

キャロルが基地の建物内の
確認に向かいました。

しかしそのとき制圧したと思っていた
建物から機関銃が火を噴き
瞬く間に王国の人々が倒れて行きます。

エゼキエルの周囲にいた数人は
エゼキエルが制止するのも聞かずに
エゼキエルをかばうように
覆いかぶさってきました。

キャロルはリックとダリルが
探している武器がこの基地に
運ばれていたことを知ります。

王を守ろうとして覆いかぶさった
王国の民たちの山から這い出るエゼキエル。

ぼう然とするエゼキエルの目の前で
仲間たちが動き始め
次々とウォーカーとなっていきます。

エゼキエルは脚に銃弾を受けており
満足に歩くことが出来ません。

キャロルは機関銃を片づけていた
救世主の内の数人を奇襲をかけて倒します。

さらに生き残りの救世主が武器を
持ち去ろうとするのを
キャロルは阻止しようとして…



今シーズン、少なくとも前半は
この調子で行くようですね。

各拠点での戦いが
リアルタイム形式っぽく描かれていく。

これまでも、様々な見せ方をしてきた
シリーズですから、このような
スタンダードな見せ方も
悪くはないのかも知れません。

ショッキングな第3話のラストシーンの
続きから始まったので
これまでのシーズンに比べると
安心して観ていられます。

さて、王国の王であるエゼキエルさん。

相棒である虎を傍らに置き
その貫禄をもって王を演じてきた彼。

今シーズンの第2話では
とても感銘を受ける言葉を残してくれました。

「それでもわたしは笑う」
「できるまで、できるフリをする」

その強さで王国のみんなを
引っ張ってきたんですね。

実際に彼のその強さは第2話でも
勝利を導いていました。

ハッタリは大切です。
嘘じゃなくてハッタリ。
踏ん張り、背伸び。

しかし、ハッタリを効かせれば
いつでもどこでも成功するほど
世の中は甘くはありません。

それが第3話のラストでした。

この第4話では
「なるべき自分になると決めた」
とエゼキエルが語るシーンが出てきました。

この戦いを始める前のシーンです。

そんな彼が、家族や愛する者を町にのこして
自分に命を預けてくれた民の
悲惨な末路を目の当たりにしてしまう。

それは全部自分のせい、
わたしは王などではない・・・

終末の世界になる前は
動物園の飼育員だった彼は
「なるべき自分」を見失ってしまうんですね。

見失うというか諦めかける。

でも、それでも自分の身をていして
彼を守り助けようとする人たちがいる。

みんな大人です。ちゃんとわかっている。
王は神様じゃない。
自分と変わらないひとりの人間。

でも、あなただからついてきたんだよ
と彼を支え彼の背中を押そうとする。

そんな心意気がかいま見えるお話。

エゼキエルさん、
「それでもわたしは笑う」
「できるまで、できるフリをする」
「なるべき自分になると決めた」

その言葉、今がまさに
発揮すべきときですよ!!


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