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2015年12月20日

ドラマ「無痛〜診える眼〜 #10(最終話)」他人の視点も自分の一部



わたしは自分のことにとても興味があります。

自分をもっと知りたい。

でも、こればかりだとあまりよろしくないですいよね。

昔はよく注意されました。

「あなたは自分にしか興味がないんだよ」と…。

さすがに、結婚して子供ができると
いやでも家族のことは気になります。

それでも、家族からは「自分にしか興味がない」
と思われているのかもしれません。

でも、そんなことないよ!!
と強く否定するつもりもありません。

「君たちが何を考えてその行動をしているのか?
知りたいし、聞きもするけど、
何でもかんでも踏み込んで聞き出せばいいとも思っていない」

そういうことは言うと思います。

他者と自分の礼儀としての境界線はある。

それがわたしの距離の取り方に関する考え方なので
それを守るにしても、飛び越えるにしても
一定の不本意な受け取られ方は発生するものだと
了解しています。

わたしという人間に対して、わたしが意図しない、
あるいはまったくわたしの性格とは似ても似つかない
人格のように判断されることは、
きっとよくあることなのでしょう。

でも、そう思われる要素がわたしにはあるということは
わたしにまつわる問題なので、
そのこと自体はわたしの一部なんだと理解しています。



1月期のドラマはどうなんでしょうか?
わたしはNHK大河ドラマ「真田丸」を楽しみにしています。
今シーズン楽しみにしていた
このドラマも最終回の放送が終わりました。

ドラマ「無痛〜診える眼〜」

第10話(最終話)を観ました。

早瀬順一郎(伊藤淳史)がイバラ(中村蒼)を撃ち、
イバラは川へと転落しました。

急所は外れていたが本格的な警察の捜索は
夜が明けてからになるとのこと。

為頼英介(西島秀俊)から報告を受けた、
高島菜見子(石橋杏奈)、井上和枝(浅田美代子)は、
発砲を焦った早瀬の危険性を心配します。

寝ていたはずの南サトミ(浜辺美波)が話を聞いてしまい、
飛び出そうと暴れるのを和枝は必死で抑えました。

翌日、イバラの捜索を続ける警察。

一方、信用を失った『白神メディカルクリニック』では
患者の転院などの整理が進められていました。

秘書の横井清美(宮本真希)は今後の指示を仰ごうと
院長室へ行きますが、
白神陽児(伊藤英明)姿は姿を消し、連絡も取れなくなっていました。

為頼の診療所に姿を現した早瀬。
イバラを撃ったことを責める為頼に、
早瀬は彼は凶悪犯だと射殺を正当化するようなことを言います。

為頼は早瀬に白神から言われたのだろうと問いただします。
白神が早瀬にイバラを殺すように
そそのかしたのだと説明しながら、
イバラの治験データを早瀬に見せました。

データはイバラが白神に処方された薬の影響で
一家殺害時の記憶の喪失、
薬による強暴性の増加を語っていました。

早瀬は一家殺害への白神の関与の可能性を突き付けられ
その憎しみの矛先を白神へと修正するのでした…。



白神の秘書・横井清美が、
為頼と菜見子を逆恨みして、
為頼の診療所で菜見子を殺そうとするシーンがありました。

その騒動のあと、菜見子は為頼に言いました。

「知らないうちに恨まれていることってあるんですよね。
でも、そういうことともちゃんと向き合っていかなきゃいけない…」

知らないうちに恨まれたり、憎まれたり…
あるいは憎しみまではいかなくとも
冷たい人だとか、怖い人だとか
勝手に思われていたり…

『本当のワタシを知りもしないで!なんで?』

と言いたくなることはあります。

明らかに誤解を招いているときもある。

話すらしたこともない人や、
ほとんど知りもしない人からのいわれのない評価を知った時は
理不尽な感じがしてとても悔しい気持ちになりますよね。

しかし、少しそんな悔しい気持ちを脇に置いて、
そんな自分を突き放して観てみる。

第一印象だろうか、間接的な印象だろうが、
そのように観られている自分というのも
本来の自分とは関係なく、“自分の一部”
なのではないでしょうか?

いいとか悪いとか関係なく、
そのように観られる要素があるということ。

菜見子が言う「向き合う」とは、
そうみられるからダメなんだとか
否定をしろということではなくて、
ただ、そういう風にみられていたんだという
事実を事実として受け止めるということ。

為頼の恩師の久留米が亡くなるときに、
痛みも自分の一部だといって
受け止めながら亡くなりました。

目を背けたくなるものでも、
それが自分の一部であれば目を背けない。
ちゃんと全部をあるがまま受け止めて、
自分を自分として受け止めていると言える。

そういうことですよね。
それができないと、本当の意味で
自分の人生を生きているとは言えない。

このように書くとなんだか
堅苦しいことに聞こえるかもしれません。

確かに目を背けたくなることから
目をそらすなというのは厳しいメッセージです。

でも、別の角度から見れば、
自分を拒否、拒絶、無視するのではなく
有るものを有ると認めるだけ。

有ることを認めることと、それをもって
自分を責める必要もないんだよということですよね。

有ることを認めたらそのことを
自分の中でどうとらえるのかでまた違ってきます。

それは自分で決めること。
向き合うとはそういうことではないでしょうか?


                全ての物語のために











posted by ストーリーセラピスト at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ストーリーセラピー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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