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2015年06月05日

「ダーティハリー2【日本語吹替追加収録版】」エンターテインメントに文句を言う前に



エンターテインメントと
実生活の区別はつけて当然です。

そのエンターテインメントというのが
歌や踊り、芝居や
フィクションものの娯楽映画やドラマなら
まだそれも当然というのは誰でもわかっていることですが、

バラエティ番組に関しては
その境界線が図りづらい部分があると思います。

非常に感覚的な話です。

お笑い芸人が
体を張って笑いを取っているのを見て
虐待やいじめを助長されるなんて議論もありました。

さすがにその位はエンターテインメントと
現実の区別は普通はつくだろうというのが
作り手(とほとんどの視聴者)にはわかることでしょうが
それがわからない人もいる。

もっと、境界線がわかりづらいのは、
芸人さんたちがトークで面白おかしく
夫婦の問題を語ったりすることです。

恐妻家…的な話をして、
笑いを取るのも、
話を面白おかしくしているからでしょうが、
それを言葉通り現実の世界でやると
DVやモラハラになってしまいますよね。

だからテレビはエンターテインメントである
という前提で、境界線を理解し
そのうえで教訓を得ることはできるわけです。



まだ、わたしが生まれる前の
大ヒット作品。当時はショッキングだったことでしょう。
クリント・イーストウッドの代表作「ダーティハリー」。
その続編、

「ダーティハリー2」

日本語吹替追加収録版で観ました。

組織の大物や悪党など、
法の目をかいくぐってきた犯罪者たちが
次々と白バイの警官姿の何者かに殺されていきます。

サンフランシスコ市警は以前から警戒している
犯罪組織の警戒を強化しますが、
ハリー・キャラハン刑事と相棒の黒人警官スミスは
被害者がまったく警戒してない様子から
警察関係者を疑います。

ハリーは旧知の友人が精神を病んでいることを知り
彼の関与を疑いますが、
その友人も犠牲になったことで、
疑いの目はその現場に最初に駆け付けた
新米白バイ警官に向きました。

射撃大会でその白バイ警官デイヴィスと
優勝を争ったハリーは、
彼を称えるふりをしながら証拠を手に入れます。

デイヴィスと3人の仲間はハリーも
自分たちの側の人間だと思い、
法に代わって制裁を行っているとハリーに主張し
仲間にならないかと誘います。

見くびってもらっちゃ困ると突っぱねるハリー。
秘密を知っているハリーや相棒は
彼らに命を狙われるようになるのでした…



「ダーティハリー」パート1では
法の目をかいくぐって
野放しになってしまった悪党を
命令を無視して葬り去ったのがハリーでした。

それは良いのか?

現実の鬱屈をエンターテインメントが晴らしたから
大ヒットを記録したのですが、
そのような過激な内容には
かならず道徳的な批判も押し寄せるものです。

ハリー・キャラハンは相変わらず型破りな刑事です。

命令や規則は、現場判断で無視します。

旅客機がハイジャックされた現場に居合わせたハリーは
警察の応援が到着するのを待たずに
機長に返送して単身旅客機に乗り込み、
単独で処理します。

上司や警官隊が駆け付けた時は
「なにやってたの?」と一言皮肉を残して去る。

それが痛快なのですが、
当然、指揮系統無視は混乱を招くだの
非道徳的だの、嫌わられのも必然です。

だから、今作の白バイ警官たちにも
「自分たちの側」の人間だと誤解をされた。

要するに、第一作「ダーティハリー」を見て
批判をしてきた人たちに対する
アンサー的な作品だったんじゃないかと
見ていて感じました。

ハリーはあくまで市民のために
警察官としてやっているのであって、
パート1の最後ではその警察官でいられなくなることを
覚悟の上でやりましたが、
それでも死刑執行人になたつもりはないし、
「多少の犠牲を伴っても」なんて思ってはいません。

むしろ、警察の本文を全うしようとすると
規則や法律が足かせになる場合があるというあり方です。

しかし、今作の白バイ隊たちは
法律の代わりに自分たちが悪を退治しているんだ
という立場に立っている。

エンターテインメントとして破天荒なハリーを見ると
同じじゃないか!という人もいますが
やっぱりそこは明確に違うんですよね。

悪役の白バイ隊に対しては
「君たちはいったいなに様のつもり?」
ということですよね。

正確には、エンターテインメント上での
表現における線引きというのは
時代によってまた変わってくるものでしょう。

映画に限らず、作品の作り手は
そういった表現における難しさの立ち位置はこの映画のように
しっかりと自分で確認をしておくべきでしょう。

でも発信側だけではありません。
わたしたち受け手も、エンターテインメントから
何を学び、何を真に受けたらいけないのか?
自分たちで考えらえるようにならなければならないでしょう。

そのためにも、いろいろな作品に触れ
感動する経験はもちろんですが、
現実の世界での当たり前のことに
感謝や感動できる視点や感受性を育むことを意識したいですね。


                  全ての物語のために









posted by ストーリーセラピスト at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ストーリーセラピー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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