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2013年06月10日

小説「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン) 第10巻 虹の彼方に(下) 福井晴敏 著」絶望への共感




苦しいとき、同じ苦しみを知っている人に出会うと
救われたような気持ちになります。

その苦しみを分かってくれる人だと思えるから・・・

あるいは物語の中の魅力的な悪のヒーローや
魅力的な敵役に惹かれて傾倒していくのは、
彼らが味わう絶望に共感し、彼らの行動が
その絶望を駆逐する具体的な方法に感じられるからかも知れません。


「機動戦士ガンダム」シリーズの最大の敵役シャア・アズナブルは、
魅力的な敵役としての代表ではないでしょうか?




福井晴敏さんの小説「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」

第10巻、「虹の彼方に(下)」を読んでいます。
いよいよ最終巻です。10冊一気読みでした。

この物語には、赤い彗星シャア・アズナブルの再来
といわれるフル・フロンタルというキャラクターが出てきます。

果たして彼は、本当にシャアなのか!?という謎も
この物語の魅力の一つですね。


シャアというキャラクターは、一番最初の「機動戦士ガンダム」で、
主人公アムロ・レイの宿敵として登場します。

シャアは、地球連邦政府に反旗を翻したジオン公国の軍隊
ジオン軍の少佐として登場します。

本名はキャスバル・ダイクン。
ジオン・ズム・ダイクンの長男。

ジオン・ダイクンは宇宙に出た人間は革新しうると、
人間の可能性を主張し、人の革新=ニュータイプ説を提唱します。
そして、地球連邦政府に大して宇宙移民者の参政自治権を求める
運動を開始しようとしますが、ザビ家に暗殺されます。

ジオン・ダイクンの象徴性を利用したザビ家は独裁政治を目論み
ジオン公国を名乗り、地球に独立戦争を仕掛けました。

これが、アムロとシャアが争うことになる「一年戦争」です。


キャスバル・ダイクンは、シャア・アズナブルと名前を変えて
ジオン軍に使えることで、ザビ家に近づき、父の仇をとります。

そして父の遺志を受け継ぎ、人の可能性としてのニュータイプ説を
信じて、一時はアムロたちとともに地球の為に、
独裁政治を目論む新たな敵と戦いますが、
ニュータイプが実際に人の可能性を示しても
全く変わろうとせず、地球にしがみついて、地球を汚染するだけの
人たちに絶望してしまいます。

その結果、地球に隕石を落として、核の冬にし、
人を住めなくして地球に冬眠してもらおうという狂気の戦争を始めます。

そこでまたアムロがシャアの行く手を阻みます。


2人の戦いはニュータイプ同士の魂のぶつかり合いとなり、
ニュータイプの希望は光となって現われ、
地球を救うという超自然的で圧倒的な「可能性」を魅せつけることになりました。


ところが・・・
ニュータイプの希望は、地球人全体の無意識を集めて
星を動かすほどの光りとなって人の目に可能性をしめしたのに・・・
それには沢山の命が散り悲しみを広げるという多大なる犠牲も払ったのに・・・

それでもまだ変わろうとしない!
新しい未来のための変化を恐れ、現状を維持することに終始する。

そうか・・・結局、これが人というものか・・・
なら、変わろうとしないものに変われといい続けるのをやめて・・・


隕石を落として地球を冬眠させようとまでして、
絶望のその先にまでいってしまったシャア。

そんな男が生きていたらどうなっているのか?


この小説を通して語られるフル・フロンタルのセリフは、
正しいことを言っています。



私自身、子供のころから何度か「ガンダム」シリーズは見てきて、
シャアが言ってること正しいな・・・と共感したりもしてきました。

この小説を読んでいても、「うーん、確かに・・・」
と思ってしまったりするし、
苦しい時期に読んでいると、シャアのように一種の”無”の
境地に達してしまえば苦しくなくなるのかな?

という誘惑にも駆られます。

子どものころ読んだマンガ「北斗の拳」では、
悲しみを背負って生きる主人公のケンシロウに立ちふさがる
宿敵のひとりが、愛した人を亡くし、
「こんなに苦しいのなら、愛などいらぬ〜〜〜!」
と言って人間の心を捨てるシーンがありました。

「機動戦士ガンダムUC」では、
「自分は人の総意が注がれる器になった。
人が望むなら私はシャアになる」
という言い方で自分がシャアなのかどうか
という答えをはぐらかすフル・フロンタルが
「シャアが生きていたら、
それはもう人ではなくなっているのではないかな?」
と問いかけるセリフがありました。

絶望に絶望を重ねて、それでも生きているなら
それはもう人を超えた存在だよというんですね。

多分、この「器」というのは、
ある種の「無」の境地と言うことでしょうけど、
禅や仏教のお坊さんたちの本には、
そういう諦めの無とは違って、
もっと熱い「無」を感じます。

そのひとつは「一心不乱」という「無」の境地。

余計なことは考えずに今やることに集中する。

それは、未来を創るのは「今」だから、
未来という希望に向かって今よりよくあろうということですよね。

多分、フル・フロンタルの「器」的なものより、
一心不乱の方が、禅でいう「無」に近いんじゃないでしょうか?


この小説の主人公バナージ・リンクスは、
確かに正しいよねって思わせる
徹底的な絶望を突きつけられながらも「それでも!」
と希望の光を灯そうとします。
もちろん自分自身も揺れながら。


絶望に共感したくなるのは、とてもよく理解できます。
でも、世の中の大人がみんな、
「それが大人になるということだよ」みたいな悟り顔で生きていたら、
子ども達は大人になりたいとは思わなくなります。

私は息子にどれだけ絶望を経験しても、
希望を灯そうとする父親の姿を見せたいなと思って、
絶望への共感を飲み込んで、主人公に共感して
自分を奮い立たせようとしています。

物語の力ってそういうものですよね。



                     全ての物語のために









posted by ストーリーセラピスト at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ストーリーセラピー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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