2017年05月13日

アニメ「終物語 そだちロスト #1」大切な人をもう一段上のレベルで大切にする方法



いつでもなんでも開けっぴろげ
ではいられませんよね?

人に話したくないことはあります。

それが「いつまで」という一定の期間は
黙っておきたいことなのか、
あるいは「いつまでも永遠に」
黙っていたいことなのか、
それもそれぞれあるでしょう。

それぞれあると言えば、
自分で意識して言いたくないということと
自分でも無意識に触れたくないこと
触れられたくないことというのも
あるのではないでしょうか?

経験上、自分の人生が何か上手く行かない、
どこか行き詰まっていると感じるときは
無意識に自分をもごまかしているようなこと、
自分で見えていない自分の中身に
気付いていくことで道が開けていくことが
多いように感じています。

ただしそれは、非常に強固に
無意識の壁に守られていますので
他人が無理にこじ開けようとすると
よけいに防壁が強固になり
逆効果になりかねないという
デリケートな面ももっている。

大切な人の幸せを願うなら、
そういうことを学ぶのもまた
大切な人を大切にするということに
なるのではないでしょうか?



西尾維新さんの原作小説が基本的には
会話劇です。わたしも映画を撮ったり
脚本を買いたりしてきましたから
ある程度わかりますが、この小説を
映像化しようとするとかなり大変なはずです。
でも、この映像化シリーズはそこが非常に
上手いんですよね〜

アニメ「終物語」
「そだちロスト」第1話


を思わず2回繰り返して観ちゃいました。

副委員長でもある阿良々木くんは
委員長の羽川翼と2人で、
再び学校に来なくなった
老倉育の家に向かっていました。

委員長、副委員長として
登校拒否のクラスメイトに
登校を促すという役目というのは
とってつけたこじつけでした。

本当は阿良々木くんがきちんと
老倉と話をしたかったのです。

阿良々木くんは羽川に言われて
老倉のことを両親や妹たち
そして小学生のころよく家に遊びに来ていた
千石撫子に聞いてみたのです。

両親と千石ははっきりと覚えていました。
幼なじみとは言わないまでも
先日思い出した中学1年生の夏どころか
もっと以前から、老倉とは会っていたのです。

自分は薄情だな・・・なんて反省しながら
羽川と歩く阿良々木くん。

しかし、実は2人で老倉を訪ねることが
決定するまでに一波乱あったのです。

当初、老倉と同じタイミングで
学校に来なくなった戦場ヶ原ひたぎを
羽川が見舞い、老倉を阿良々木くんが
という役割分担でした。

阿良々木くんがひとりで校門を出ると
そこに忍野扇がいました。

阿良々木先輩にお供するという扇に
阿良々木くんが承諾仕掛けたとき
嫌な予感に突き動かされた羽川がやってきて
止めに入ったのです。

そこから羽川翼vs忍野扇の戦々恐々とした
論争の火蓋が切って落とされたのでした・・・



小説でも迫力のある羽川翼vs忍野扇の論争。
アニメでも迫力ありますよ。上手いですね〜。

さて、その論争後に冒頭のように
羽川と阿良々木くんは2人で
老倉を訪ねることになるのですが
羽川は忍野扇の尾行や先回りを気にします。

そんな羽川にちょっと気にしすぎだよと
諭す阿良々木くん。

しかし、羽川はそんな彼と彼の物言いを
とても冷静に受け止めていました。

2人の話が噛み合わないのです。

まるで阿良々木くんが意図的に話を
逸らしているようなズレかたをする。

羽川はそのことを指摘してみますが
阿良々木くん本人は本当に
意味が分かっていない様子。

今は、そういう話ができないって
ことなんでしょうね。
と自分の中でひとまずの決着をつける羽川。

とても、大人ですね。

わたしたち日本人・・・いや、先進国で
暮らしている大人たちの多くに必要な
本当の意味での大人の思慮深さ
なのだと思います。

妻や息子と接していても、仕事で
後輩と接していてもこう言った場面は
多々訪れます。

最近は弟と話をする機会も多いのですが
弟にそういう思いをさせているな・・・
つまり、わたし自身が自分の無意識の
防壁を作っていて、話を逸らしたがっている
というのを感じさせてしまっている
ということに気付くことがあります。

弟は数年前からわたしに言っていました。

わたしが自分で無意識の防壁に気づけた
ということはもう無意識ではない、
意識の上に上ってきているということです。

だから、正確には数年前に弟に
今回の羽川のような大人の決断を
させていたのでしょう。

貯金が苦手なわたしに弟は
貯蓄の習慣づけを意識することの大切さを、
以前から説いていました。

さかのぼると、結婚当初から妻にも
散々言われてることです。

それが、今になってやっと
「金持ち父さん貧乏父さん」を読破し
内容が自分の腑に落ちたことから
自分自身で向き合い初めているんですね。

それでも今でも、周囲から言われると
「わかってるって!」と
言いたくなっちゃいます。

でも、それこそ自己防衛本能に脊髄反射して
怒っているだけで、そっちに走ると
わたしはまた自分を正当化して
無意識の底に閉じこめてしまいかねません。

デリケートです。だから自分でも
大切に取り扱うようにしています。
自分の心を、そして周囲の意見と
周囲の意見に対する自分の感情も。

それができるのは、何度も何度も伝えながらも
今はこれ以上、その話ができるときはないと
妻や弟が引いてくれていたからに
他なりません。

無理にこじ開けようとされていたら
わたしのなかの防壁は意地を張って
もっともっと強固になっていたのは
間違いありません。

だから他のことで、妻や妹・弟、
そして息子と話していて
明確にしろなんとなくにしろ
今はこの話題は避けたいときなんだな
と感じたらできるだけ身を引くように
気を配っています。

彼らがその問題と自分で向き合えるときが
最良のタイミングだとわかっているから。

でも、わたしたちは相手がその話題から
避けたがっているのを感じ取ると
さらに問いつめたり、厳しく指摘したく
なったりしますよね。

そこには「相手のため」という思いが
強く存在しているはずです。

確かにそれだけ強く相手を心配しているから、
相手のことを自分のことのように思っているから、
であることは間違いありません。

でも、だからこそ本当の意味での「効果」
を考えなければならないのではないでしょうか?

いま、感情的に無理矢理論破するのが
正しいことなのか?
逆に閉じこめてしまうことではないのか?

この選択の分かれ目は、最終的に
ガマンできないという自分を大切にするか
自分のわがままよりも
相手の人生の最良のタイミングを大切にするか
という選択に他なりません。

本当に大切な人だからこそ大切にする。

その大切な選択はわたしたち自身の
心の成長とは切り離せないのです。


        全ての物語のために









posted by ストーリーセラピスト at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ストーリーセラピー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする