2016年08月31日

ドラマ「しんがり 山一證券 最後の聖戦 #4」安定した仕事ができるようになる軸を手に入れるドラマ



わたしたちは本能的に安定を求めます。

変化を恐れず、むしろ変化を求めて
アグレッシブに生きている人も
もちろんたくさんいるでしょう。

しかし、平均的な日本人。
とくに、サラリーマンや公務員、その家族。

となると、警察や海上保安、消防や救急という
特殊な仕事を除いては、“安定”ということに
重きを置いている人は多いのではないでしょうか?

いい加減、
いい大学に入って大きな会社に就職すれば将来安定…

なんて幻想を持っている人は年々減っていると
思いたいですが、それでも生物としての人間ですから
現状維持、つまり変わらないことを求めるという
本能的な心理は無意識に持っています。

これは、体温の自律的な恒常性を必要とする
恒温動物であることも無関係ではないのかもしれません。

いずれにせよ、“安定”を求めて“仕事”や
生きるための糧を求めていくのであれば、
安定した地盤なんてないという大前提から初めて
生きる糧を安定的に得るためのスキル…つまり
変化に対応するスキルや
不安定な世界の中でも心の安定を保つスキルを
身に着けていかなければならないのは事実です。



8月終盤、台風被害が危ぶまれる地域もあるようです。
今年の台風は、上陸が珍しい地域にも
大きく影響を及ぼしそうですね。気を付けてください。
まだまだ、これからが本格的な台風シーズンでしょうか?
上陸が珍しくないわたしたちも改めて気を付けなければ!

ドラマ「しんがり 山一證券 最後の聖戦」 第四話

を観ました。

2600億円の不良債権の存在を知り、
梶井たちギョウカン(業監)メンバーは愕然します。

そして、梶井は緊急役員会議で
不良債権の存在を口外しないよう命じた
能見社長(平田満)の態度に不信感を抱きます。

一方、自宅にも久々に帰った梶井。

数日前に妻から、息子の大輔(板垣瑞生)が
大学には行かないと言い出したと聞いていて、
息子の様子も心配していました。

そんな中、中央新聞の冨田(三浦誠己)から
東京経済新聞の朝刊の一面トップに
衝撃的な記事が出ていると連絡を受けます。

一面トップでは山一證券の自主廃業を
大きく知らせる文字が躍っていました…。



梶井の息子・大輔が梶井に言います。
勉強をするのは有名な大学に入るためで
有名な大学に入るのはいい会社に入るため…
子どものころからそう教えられてきた。

でも今、父さんは、高卒で苦労してまで入った
大きな会社で、家にも帰れずに働いて、
挙句の果てに、その会社がつぶれちゃったじゃないか。

本当に、大学には言っとけって…その将来で合ってるの?

そして、こうも問います。

そんな、つぶれてしまった会社のために
未だ家に帰れず泊まり込み状態で働く梶井に、
「それに何の意味があるのか?」と。

梶井は、何も答えられません。

バブルがはじけた直後。
終身雇用神話がまさにガラガラと崩れる
その崩れる地盤の上にまさに立っていた人たちのドラマ…
なんですねぇ〜

大輔が指摘した通り、
いい会社、安定した会社に就職することが目標で
有名大学に入る…なんて将来を
正しい将来だなんて盲目的に信じていいわけがない。

それは、2016年という現代においてはもう常識ですよね。
頭で考えたら、だれでもわかる常識。

ところが、無意識レベル、感情を左右する
潜在意識のレベルで言えば、
それが常識になっていない人が多い。

わたしもその一人だと自覚しているつもりです。

そもそも、地盤なんて安定していない。
それが地球の上で生きる、宇宙の中で生きる
ということなのでしょう。

それを踏まえて、安定的に生きていく…
生命としての命を、健康を、
安定的に維持し、次の世代へつないでいくという
営みの工夫が求められている。

安定を求めるとは、そういうことの正解は
きっとそういうことなのではないかと思っています。

心穏やかに生きていきたい。
将来に怯えずに生きていきたい。
生命体としての人間の根本的な欲求でしょう。

そのためには、状況に心を振り回されずに
どんな時も心を穏やかに保てるように
自分で自分の心を成長させていくしかない。

そのためにどうすればいいのか?
どう在ればいいのか?

その答えの一つが、梶井が言葉にはできなかったけど、
潰れて、みんなが急いで脱出しようとしている会社に
踏みとどまって最後の仕事を全うしようとする在り方の中に
あるように思えてなりません。

潰れる会社に残って最後の仕事をする意味。

誰かがやらなければならないこと。

以前の経済社会では、マネーゲーム的に
自社の資産価値の大きさみたいなことが
会社の価値、仕事の価値、そこで働く人の価値…
みたいな部分もあったと思いますが、

もう、多くの人が気づいている通り、
仕事の価値とは、人の役に立つこと。

その当たり前のことをわかっている人が多い以上、
潰れる会社に残って最後の仕事を全うしようとする
在り方、そのメンタリティは本当に問われている
仕事の価値に他ならないですよね。

これからの時代の仕事の価値。

誠実なもの、人に寄り添うもの…。

今、それが問われている時代だからこそ
このような物語がスポットを浴びるのでしょう。



                全ての物語のために












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2016年08月30日

ドラマ「しんがり 山一證券 最後の聖戦 #3」こんな仕事をするためにこの会社に入ったんじゃないって思ったら



わたしは大学を卒業して社会人になったと思ったら
3日で辞表を出しちゃった…という経験があります。

それはあまりにも違いすぎたからです。

仕事の内容が?

いや違います。その会社に限って言えば…というか
その会社とわたしの相性ということになるのでしょう。

これはもう絶対合わない。

「思っていたような仕事とは違った」とか、
「やりたい仕事をするために数年は修行だ」とか、
そういうレベルの話ではなく、なんと言うか
経験した人にしかわからないと思いますが、
DNAレベルでの“違う!”感、拒絶感。

もう、20年近く前のことですが、
今でもあの感じ方、あの選択は正しかったと思っています。

だから、わたしは入ったばかりの会社に
さっさと見切りをつけて辞めてしまうということに
否定的ではありません。

今回はそれを、大前提としたうえで書きます。



わたしの中での夏が終わりました。
息子の小学生最後の夏休みをできる限り楽しい夏にするために
気力体力を充実させて“遊び”に集中させた夏。
突っ走りました。結果、息子にというよりもわたしにとって
とても良い夏だったんだな…。ありがとう。
その間、ドラマは録りためるだけでほとんど観れなかったんです。

ドラマ「しんがり 山一證券 最後の聖戦」 第三話

を観ました。

重大な秘密を抱えたまま突然辞任した、
有原会長ら旧経営陣。

その事態に梶井は憤りを隠せません。

しかし、事態はさらに悪化します。

次々と地検に呼ばれる山一の幹部たち。
そして逮捕者も出る可能性が出てきました。

梶井は逮捕される幹部のケアもしたいと
ギョウカン(業監)メンバーに提案するのですが、
若手の吉岡(林遣都)は複雑な表情を浮かべます。

そんな時、梶井が最も信頼していた
片瀬元副社長が最初の逮捕者となる可能性が浮上します。



ギョウカンの最若手、吉岡も山一證券の事件で
私生活を犠牲にしていました。

わたしの個人的な感覚としては、
結婚相手の勤め先で、その結婚に賛成反対をする
というのは失礼極まりないことです。

でも、世間的にはそうでない人たちも多いのでしょう。
未だサラリーマン神話の感覚が抜けない人たちは
いますからね〜。

吉岡がぶち当たる苦悩とはそういう類のことです。

そんな状況の中で、
梶井が逮捕される幹部のケアまでしようと言いだしたとき
こんなことをするためにこの会社に入ったんじゃない!
と一番憤るのが吉岡です。

なぜ、吉岡が山一證券に入ったのか、
今回の話ではそのあたりも描かれました。

そこには吉岡なりの夢や誇りがありました。

もう、これは憤るしかないです。
もちろん、この事件は、
ちゃんとやっている社員全員が憤るしかない。
そんな事件ですが…。

それでも、「これは誰かがやらないといけないことだ」
と梶井は本来の証券マンとは関係のない仕事をやる。

梶井と連絡を取り合っている報道マンや
その報道マンの会社の様子も描かれますが、
どっぷりとその仕事に浸かっているように見えました。
全身全霊、全力で仕事に身をささげている。

そんな風に一生懸命に仕事に打ち込める人がいる一方で
「こんなことをするためにこの会社に入ったんじゃない」
と憤る吉岡のような人もいる。

ドラマ「営業部長 吉良奈津子」では、
クリエイティブの仕事に戻りたかった奈津子が、
営業部に配属されて、やりたかった仕事と違うと
苦悩する場面もありました。

わたしたちが就職したころ、
社会問題的な扱い方もされていた
「すぐに辞めてしまうワカモノたち」も、
「思っていたような仕事じゃなかった」
と言って辞めて行く人が多かった。

仕事によってはその職種をする前に
修行を積まないといけない場合があります。

その場合は、鍛錬をしてスキルを上げて行く間は
「やりたい仕事」はできないのかもしれません。

しかし、多くの場合は、憧れていた仕事の周辺にある
雑多な仕事、雑多な作業の手伝いをやらされて
「こんな仕事をしたかったわけではない」
「思っていたような仕事じゃなかった」
と思ってしまう。

それで、辞めてしまえるのなら辞めてしまっていいと思います。
辞めてしまえると言うのは、
もうそんな仕事すらしたいと思わなくなった
という程度の気持ちだったとか、
逆に、辞めた方が本来やりたかった仕事をできるとか、
(転職先でできるとか、独立してできるとか)
という場合のことですね。

でも、そういうわけにもいかない場合がありますよね。
多くの場合、生活のためにも仕事というのは必要です。

何かしら仕事をして生活の糧を得なければならない。

そんなとき、その仕事をどんな風に捉えるか?
は後々、本来やりたかった仕事をするときに
大きく関わってくることになります。

いや、現実問題で言うと、
本来やりたかった仕事を本当にできる日がくるかどうか?
に多く関わりかねない大事なことです。

生活のための仕事がアルバイトだろうが日雇いだろうが、
そこには必ず、やりたい仕事をするにあたって役立つ
ことが潜んでいる。

仕事というのは何かしら人のために役だっていること
なのですから、どんな仕事にもそれは共通している。

それは技術的なコトかもしれないし、
在り方とかメンタル的な部分のことなのかもしれません。

あるいは仕事と、その他の時間の使い方など
生活全般においてのスキルなのかもしれません。

はたまた、経験そのものであったり、
将来のためのアイディアの源であったり…

とにかく今という瞬間になにをしているにしても、
「こんなことをしたかったんじゃない」
と思って何も観ないよりも、
本来したかったことにつながる宝がそこには
沢山眠っている。

その視点を持って、それらを可能な限り
受信してやるというアンテナ感度の高さを意識して
目の前の仕事を見渡してみて欲しいと思います。

「こんな仕事をしたかったんじゃない」

という言葉の裏に、「本当はこんなことがしたい」
という思いがあるのなら…ですよ。


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2016年08月29日

小説「暦物語(コヨミモノガタリ) #4 こよみウォーター 西尾維新 著 講談社」固定観念を外すして自由になるコツ



物事にはルールがあります。

グローバルなルールもあれば
国の法律も、業界のルールも、
地域のルールも、チームのルールも、
社会人としてのルールも、
校則も、ある。

それは具体的に定められたものもあれば、
常識、暗黙の了解、昔ながらの知恵、
単なる習慣、なんとなくの空気などなど…

色々な意味でのルールがあります。

サラリーマンの常識は、商売人の常識とは違うし、
子どもたちのルールは大人たちのルールとも違う。
ところ変われば変わるルール。

郷に入っては郷に従え

なんて言葉もあります。

ルールというと何かしらの決まりごとということですが
これがなかなか厄介な場合もある。

厄介極まりないルール、決まりごとの代表に
無意識でそうあらねばならないと“思いこんでいる”
固定観念というものがありますよね。

ルールに縛られていた固定観念を捨てられない…
ルールの外にでなきゃ、固定観念をすてなきゃ
自由になれない!!
というのもすでに固定観念だったりするんですよね。



不思議と「物語シリーズ」を読んでいると、
観も周りで、今まさに起きていることが、主人公たちが
ぶち当たる壁や葛藤とリンクしていることが多くあります。
まあ、小説にハマるときって、今の自分に感じる部分があるから、
というのも多いので、当たり前と言えば当たり前なのかな…。

小説「暦物語(コヨミモノガタリ)」 西尾維新 著 講談社
第4話 「こよみウォーター」


を読みました。

七月、阿良々木くんは片づけが下手な後輩である
神原駿河の部屋を片付けるために神原家を訪れていました。

部屋を片付け終わった阿良々木くん。

神原から風呂に入って行くように勧められます。

そして、その風呂に使われているという
不思議な井戸水の話を聞かされます。

その水は、水面に自分の未来の結婚相手の姿を
映しだすことがあると言うのです…。



さすが神原相手の短編、雑談が非常に多い(笑)
それでも八九寺真宵との会話とはまた違う意味で
非常に面白く、テンポよく読み進めてしまいます。

今回も冒頭で、阿良々木くんが「道」について
神原に聞いたときの彼女の返答が
会話形式で紹介されていました。

神原は、通常道は定まりきっていて、
外れることは許されない…と語り始めます。

誰しも人生という道の上を移動している以上は
なんらかの決まりに従っているものだと。

そして、「ただまあ」と続けます。

定まりきっているとか決まりにい従っているとは言っても
ドロップアウトすることが難しいという意味でもないと。

車線から外れなくても、『後ろに進む』事もできる…
そしてまとめます。
「道には、逃げ道だってあるのだから」
…と。

なんかもう、こんなふうに言われちゃうと
ルールの中で、あるいは固定観念の中で、
がんじがらめになっているのがバカバカしく感じますね。

道は進むもの、というルールがあっても
その固定観念をそのルールの中で外せるわけですよ。
ルール外ではないルール内でも
固定観念に縛られなくていい。

進むべき道を、後ろに進む、横に進む、上に進む下に進む。
進みながら脇道を探してもいいし、
逃げ道に逃げてもいい。

全部、道から外れず、進み続けている。

案外、自由に生きたいと言いながら
「ルールの中にいないで外に飛び出さないと自由にはなれない」
と思いこんでいるとしたら、その思い込み自体が
すでに自由ではないよね。
と言うことなのかもしれませんね。

本当の自由とは不自由に縛られることではなく
不自由な環境の中でも自由に生きること。
なのでしょう。

その意味がわからずにルールの外に飛び出しても
外のルールに縛られるだけですもんね。


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2016年08月28日

小説「暦物語(コヨミモノガタリ) #3 こよみサンド 西尾維新 著 講談社」道が道ではなくなるとき、人生ではなくなるとき



わたしは夢の諦め方がわかりません。

専業映画監督という夢は諦めました。
でも、映画を作りたいとか、物語に携わりたいとか、
物語によって人が幸せになっていくところに
関わっていたいとか…

そういう欲求はなくならない。

つまりその一手段であった
専業としての、職業としての映画監督は
諦めましたが、大きな意味でのわたしの夢は
いまだ飽くことなく実践中なわけです。

このブログを読んでくださっているあなたが
その目撃者でもあります。

この大きな意味での夢を諦めろと言われても
諦めようがないし、
結局お金が無いころから(今もたいしてありませんが)
無理してでもやってきたことです。

なぜかやってしまうことです。

だから辞めようがない。

ここを辞めたら…辞めろというなら
わたしにとっては「生きるな」と言われているのと同じ。

もうそれは人生と言えるのか?
と大げさではなく、本気で感じてしまいます。

人生とは?と聞かれたら
それは「人生です」と答える。
ただ生きることだと。

でも、立ち止まるなら、前に進むことを
諦めるなら、それはもう人生とは言えなくなるのかも。



小説もテレビシリーズも映画も「物語シリーズ」ばかりに
なってきつつあるこのブログ。もうストーリーセラピーならぬ
物語シリーズセラピーと改題した方がいいんじゃないか?
と思いつつ、ファイナルシーズンではありますが、
もうしばらくこのシリーズは続くようです…

小説「暦物語(コヨミモノガタリ)」  西尾維新 著 講談社
第3話 「こよみサンド」


を読みました。

六月中旬、忍野メメが町を去って数日後。

阿良々木くんは八九寺真宵から
ある公園の砂場の怪についての話を聞かされます。

その公園の砂場が、毎晩、
鬼の顔のような模様を浮かび上がらせる
というのです。

昼間は子どもたちが遊んでいるはずだが
夜になると前夜と同じ模様になる…と。

阿良々木くんは真夜中の公園へと出向き、
事の真相を確かめようとします…。



一話ずつ、それそのものは怪異とまではいかないけど
怪異かもしれない不可解なことが取り上げられる
短編集のような作りになっています。

阿良々木くんが高校三年生になった
四月にスタートし、毎話、ひと月ずつ進み
ラストの話「こよみデッド」…デッド!?
が明くる年の三月。

これまでの物語シリーズのお話の合間にあった
小エピソード集のようです。

ただし、阿良々木くんが一貫して
「道=人生」について考えるという
一貫したテーマでつながっているようでもあります。

八九寺真宵は小学生の幽霊です。
道に迷ったまま事故に会ってしまい
道に迷い続けている地縛霊。

そんな八九寺と親友になってしまった
阿良々木くんが八九寺に
八九寺にとっての道とはなにか?
と問いかけた時の八九寺の返答が印象的でした。

「歩く場所、それだけですけど」
「どこかとどこかをつなぐ場所」
「この道はどういう道だろうとか、どこに続いているんだろうとか、
不安定な道で今にも崩れそうだとか、他の道に移りたいとか、
そういうことを考えるのは構いませんけれど――
それでも、ひとつだけやっちゃあいけないことがあるんです。
それをやったら、やった瞬間に、
道が道ではなくなってしまうというタブーが」
(P92より一部抜粋して引用、改行はブログ筆者による)

そのタブーとはなんだと阿良々木くんが訊くと
「立ち止まることです」と答えまました。


時々立ち止まって考えたり、休んだりすることを
言っているのではないでしょう。
「行き止まりのことを道とは言わない」
という発言もありました。

つまり彼女のいう、「立ち止まる」とは
「諦め」的な意味を言っているのでしょう。

これは非常によくわかります。

人生を諦めたらそれこそ終わり、
自殺などはもう論外ですが、
たとえ生きていたとしても、
諦めているのは言わば生きる屍。

生きている…とは言い難い状態ですよね。
夢は諦めてもいいと思っています。
新しい夢を持てばいい。
それは一瞬一瞬を楽しく生きるんだということでもいい。

でも、もう人生に何も期待しない。
とういのは自分で行き止まりにした道。
道が道ではなくなっていますよね。
人生が人生とは言い難くなっている。

そのような人生観をもっていると、
たとえ素敵なことが周りで起こっていても
もう、その人の解釈が素敵なこととして受け取らない。
むしろマイナスに受け取りかねない。

短編集だからといって、決して軽く書かれてはいない。
これまで通り、楽しく面白く、
示唆に富んだ素晴らしいライトノベルですね〜



                  全ての物語のために










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2016年08月27日

「傷物語〈II 熱血篇〉」好意は自己満足でやってくれるほうが受け取りやすい



オレは家族のためにこんなに頑張っているのに。

家族のために自分を犠牲にして頑張っているのに。

私は家事と育児で自分のことなんて考える暇なんてない。

自分のことは全部後回しにして家政婦のように頑張ってる。

そんな不満を持っている方は沢山います。

わたしも「生活のため」と思って始めた仕事を
家族ができてからもずっと続けているので、
「誰のために頑張っていると思っているんだ!」
という気分になってしまうようなことが
全くないわけではありません。

実際に家族のために頑張っているのですから
それについて「当たり前」みたいな顔をされると
そりゃあ、誰だってそうなりますよね。

自分がそうしたくてしていることですから
それを盾にして「だから感謝しろ!」
というのは家族にとってはいい迷惑です。

でも、家族の態度を不遜に感じたからと言って
家族ために自分が犠牲になっている…

と思い込みすぎるのは家族にとってだけではなく
自分のためにも、精神衛生上よくありません。



独り身でただの映画好きだったころは、
劇場で1時間程度の映画を観たときは、
なんだか損した気分になったものですが、
息子の存在のおかげで、そんな感覚は消えてしまいました。
「物語シリーズ」劇場用アニメ最新作

「傷物語〈II 熱血篇〉」

を観ました。

吸血鬼となった肉体を人間に戻すために、吸血鬼である
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの
奪われた四肢を取り戻す戦いに、

高校2年生を終え春休み中の阿良々木暦くんが、
身を投じていました。

怪異の専門家・忍野メメのアドバイスを受けながら
激闘を続ける彼の前に立ちはだかる3人の敵。

吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る、
2メートルはあろうかとう身長の持ち主ドラマツルギー。

巨大な十字架を武器として駆使する人間と吸血鬼の混血、
バンパイアハーフのエピソード。

吸血鬼退治の専門家である人間、
キリスト教の特殊部隊!?ギロチンカッター。

忍野の交渉により、1対1の決闘という形での
バトルとそれぞれお互いが勝利した場合の条件を呑んだ3人。



約束の時に、約束の場所=夜中の直江津高校
を舞台に3人との戦いが繰り広げられます。

そんな阿良々木くんに再び出会ってしまうのが
委員長、羽川翼。

阿良々木くんは、彼女を巻き込むまいと、
わざと嫌われるようなことを言い
彼女を遠ざけようとしますが、
頭のいい羽川には、早々に見破られてしまいます。

その後、本心を伝えた阿良々木くんに、
着替えを持ってきてくれたりと世話をやく羽川。

しかし、出会ったばかりの同級生に
身を投じる献身的な振る舞いに「正直引く」と
伝える阿良々木くん。

とてつもない自己犠牲で、それは尊いことかもしれないけど
そんなことを当たり前にできてしまう羽川には
恩返しをしたいから、頼むから関わらずに新学期に
学校で会える日を待っていてくれとお願いをする阿良々木くん。

羽川はそれを承諾したうえで、阿良々木くんに言います。

自分はもっとズルいししたたかで、
全部自分のためにやっている…

自己犠牲なんかじゃない、これは自己満足なんだ
…と。

たぶん、その通りなのでしょう。

非日常に憧れ、阿良々木くんと関わることで
非日常を体験できることを期待している。

自分のためにやっている。

これは、わたしたちの生きることへの原点、
みたいなものなのではないでしょうか?

家族をもったのも、
家族のために頑張るという道を選んだのも
全部自分が決めてやっていること。

自分のためにやっていることのはずです。

いつからか、犠牲になっていると思っているなら
大元の大元、相手のために時間や労力を
使うか使わないかで考えたときに
使ったほうが結局自分にとっても気が楽だとか、
何かしら自分なりに判断を下したポイントがあるはずです。

そこまで掘り下げて、それを相手に伝えるほうが
自分も相手も気持ちよく手伝えるしそれを受け取れるものですよね。

自己犠牲を訴えるのは、そこにはやはり
「わかってほしい」「感謝してほしい」「ほめてほしい」
という甘えが隠れていますよね。


               全ての物語のために








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